教育の現場に強制なじまぬ(9月29日朝日新聞掲載)
山形県山形市 無職 N・Tさん(男性・68歳)
「信じられない『君が代』判決」(26日)を、まさに信じられない思いで読みました。結局は権力を持つ者の特定の価値観に基づく決定であっても、率先垂範従うのが当然と読めるからです。そもそも日本の国旗、国歌については、国民の間に多様な意見があることを前提に考えなければならないことは常識です。
これらは皇国史観や戦前の軍国主義教育、国民にとって長くつらい戦争の記憶に深くかかわっているからです。
「国旗、国歌に敬意を払うことは人としての当然の姿勢」とありました。これに同意した場合でも、国旗と国歌に烙印された歴史を否定することはできません。だからこそ多様な意見を認め、権力によって強制することがあってはならないのではないでしょうか。ましてや教育基本法前文に定められた「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」教育の場に、権力による強制はなじみませんし、教育の目的にも反します。
教育に携わる者が率先垂範する行動の基準についても考えてほしいと思います。決して権力者の特定の考えに基づく指導であってはなりません。都教委の通達や指導はどう見ても教育基本法第10条の「不当な支配」に当たると考えます。
26日に紹介した投書への反論だが、予定通り掲載された。やはり前のマトモな投書は、反論を釣り上げるためのエサに過ぎなかったようである。朝日の常套手段だから、今さら驚きもしないが。
まあ、反論としては想定の範囲内というか、何の目新しさもないものである。「あなたの意見は信じられない」という人格攻撃のような書き出しが少々気になるが、それ以外は電波度もそれほど高くない。
タイトルも月並みで「教育の現場に強制なじまぬ」となっているが、こういう主張をする人はみんな、教育とは強制をはらむものだということを忘れているから困る。社会の規律も知らないうちから、子供の自主性がどうのこうのと言って自由にやらせたら、教育も躾も身に付くわけがない。国旗・国歌だけをやたらと問題にするが、授業だって掃除だってどれも広義の強制である。「強制じゃないから、帰りたい人は帰りなさい。それによってあなたの評価が変わることはありません」という教育方針を学校が取ったら、誰が掃除などやるだろうか。
何度も言うが、国旗・国歌を敬うことは国際的なスタンダードである。でも日本には思想信条の自由というものがあるから、大人になってから日の丸・君が代について自分の頭で考え、それが国旗・国歌としてふさわしくないと思うのは自由だ。だけど、子供のうちから無意識にそういった思想がすり込まれてはいけない。
デフォルトで国旗・国歌を蔑ろにする子供を育てるような教育をしてはならないのである。
しかし、入学式・卒業式において国旗・国歌に背を向け、果ては裁判まで起こす教師を見て子供たちはどう思うだろう。よっぽど反抗心がある子を除いて、教師のやっていることが正しいと思ってしまうのではないだろうか。そういう状況の中で、難波裁判長が言ったように「国旗・国歌が自然に定着」するはずがない。だから、教師たちにきちんと起立するよう求める都教委の通達は、教育を守るうえで必要不可欠だったのだ。教師たちがきちんとした態度さえ示せば、子供たちにも国旗・国歌には敬意を払うのが当然だという意識が芽生える。おかしな思想を吹き込みさえしなければ、普通に受け入れられられるものなのだから。
そんな折、今日の東京新聞夕刊のインタビュー記事「あの人に迫る」の中で、新右翼団体一水会顧問の鈴木邦男氏がこんなことを言っていた。
「僕は高校が仙台のミッションスクールで三年間、毎朝、賛美歌を歌わされて嫌で嫌でたまらなかった。同じように日の丸・君が代を強制されていたら、僕は日の丸を破り捨てていたかもしれない。とにかく強制はよくない。僕は日の丸・君が代が好きだ。いやいや歌ってほしくない。いいことでも強制されたら、やっぱり嫌になりますよ。」
賛美歌ば歌うのがやんだったら、わざわざ東北学院(私立のミッションスクールとはココ)さなんか入んなよ! 仙台さはもっといっぺえ高校あっぺっちゃ!!というツッコミはさておき、鈴木さんまで「強制はイクナイ」とか言うのね。もうがっかり。この人、「新右翼」とか名乗っているけど、物の考え方はほとんど左に振れちゃってるね。年増ロリータ女の雨宮処凛もそうだけど、いっぺんに右に振れすぎた人ってその反動も大きいよね。何事もほどほどにしておかないと後が怖いよ。「強制されたら日の丸を破り捨てていたかも」なんて、ずいぶんと極端な人なんだなぁ…。
「強制されたら嫌になる」と言うけど、子供たちの首根っこをつかんで「歌え! 歌わなかったら退学だぞ!」なんて脅して歌わせている学校があるのかと。あくまで都教委の通達は、教師がきちんと起立して歌うことを命じているのである。一部、生徒がちゃんと歌わなかったらダメとか声量を調べるとか飛躍しすぎた自治体もあったけど、基本的には通達の対象は生徒ではなく教師だ。
そもそも、日の丸・君が代が持つ歴史的意味合い以前に、式典において国旗・国歌をきちんと扱うのは当たり前のこと。その当たり前のことすらできていなかったから、強制されるような事態になったのである。思想・心情の自由をかざして反対運動をする教師が、以前は日の丸・君が代を敬いたい人の思想・心情の自由を顧みなかったことも忘れてはならない。過去には、日の丸を引きずりおろしたり、掲揚した校長に詰め寄ったりするなどといった思想弾圧が、教育現場で起こっていたのだから。
日の丸・君が代に反対するような教師たちは、強制なんかされる前からずっと嫌いなのである。戦後民主主義教育の中で、知らず知らずのうちに日の丸・君が代を蔑む意識がインプットされたのだ。そういう人間が教師になり、その思想を再び生徒たちに刷り込むという負の連鎖を、このあたりで断ち切らなければならない。さっきも言ったが、デフォルトで国旗・国歌を嫌う人間をこれ以上育ててはならないのである。
一日も早く、日本の教育現場が日教組やその残滓による「不当な支配」から抜け出すことを夢見て止まない。「強制はイクナイ」と言って反日サヨク教師を甘やかすことは、日本の教育現場に長く禍根を残すことにつながるだけだ。
posted by atsu at 23:57| 東京 ☁|
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国旗・国歌問題
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