「揺れる小沢氏 首相を批判 かつて『靖国参拝 自然なこと』」(産経 ネット上のソースなし)
小泉純一郎首相が15日に靖国神社を参拝して以降、沈黙を守っていた民主党の小沢一郎代表が、17日発行の夕刊フジのコラムで首相の参拝を激しく批判した。
「退任前のパフォーマンス」と断じ、「天皇陛下がご参拝することができるように環境を整えるべきだ」と批判のボルテージを挙げている。
かつて「何もはばかることはない」と首相の靖国参拝を支持したことのある小沢氏。その考え方と言動を振り返ってみた。
■だんまりから…
首相が靖国参拝した15日、民主党は鳩山由紀夫幹事長が会見に応じただけ。小沢氏サイドは「小泉首相は辞める人。代表がコメントするまでもない。代表選の準備に専念してもらう」(細野豪志役員室長)としていた。
だが、17日のコラムに登場した小沢氏は、「首相はあの戦争を『間違った戦争』と認め、いわゆるA級戦犯について戦争指導の責任がある『戦争犯罪人』と言及していたではないか」と指摘。
続けて「靖国神社にA級戦犯が祭られている。国内的にも国外的にも『日本国を代表する首相が、戦争責任にケジメをつけない行動をした』ということになる」と批判を炸裂(さくれつ)させた。
代表就任後、小沢氏が力説してきた靖国参拝に関する持論は「(祭られている人の氏名が記されている)靖国神社の霊璽簿(れいじぼ)からA級戦犯を削除すべきだ」というもの。「当時の国家指導者たちは、日本国民に対し戦争を指導した重大な責任を負っている。本来は祭られるべきではなく、英霊に値しない」というのが理由だ。
■素直な気持ちで
だが、小沢氏は自民党に所属し、自治相だった昭和61年4月2日、参院地方行政委員会で佐藤三吾氏=当時社会党=に公式参拝するかどうかを問われ、こう淡々と答弁している。
「お国のために一生懸命戦って亡くなった戦没者に参拝することによって、誠の気持ちを表すということだ」「A級(戦犯)であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない」
そして、こう付け加えた。「責任論と私どもの素直な気持ちは、別個に分けて考えていいのではないか」。
小泉政権発足前日の平成13年4月25日。前年に自民党との連立を解消したばかりの自由党党首の小沢氏は、
「国のために純粋に前線に出て倒れていった人たちに対し、感謝の気持ちをもつことは当たり前」「素直に受け取ればいい」と、首相の参拝を支持していた。
民主党副代表だった昨年6月9日には、「本当に『政治家の信念』だというなら、中国や韓国が反発しようとも、堂々と終戦記念日の8月15日に参拝すべきだ」と発言。首相を牽制(けんせい)するのが狙いとはいえ、「8・15」の首相参拝に“お墨付き”を与えている。
こうしてみると、最近の小沢氏の発言は昭和61年当時とは明らかに食い違う。「批判のための批判ではないか」(自民党のベテラン議員秘書)との声もある。ただ、当時と靖国参拝をめぐる政治状況も、小沢氏が置かれた立場も大きく変わっているのも事実。小沢氏はかつての自身の言動を念頭に置いているかのように17日、「政府の責任ある立場にいる者が参拝することは(それ以外の人が参拝するのとは)次元が違う」と説明しているが…。
去年は「信念があるなら8月15日に行け」と言っておいて、本当に15日に行ったら「けしからん」と言われたのでは、小泉首相も困ってしまうだろう。政治家には、できれば発言に一貫性を持ってほしいものなのだが…。
まあ政治家と言えども人間だから、考えが変わることもあるだろう。しかし、なぜこの短期間に小沢さんの考えが急転回したのかは気になるところだ。いったい何が彼をそうさせたのか、小沢さんには説明してほしいものだ。
私は、元々小沢さんを割と評価していた。未だに文章を書くときに「小沢」ではなく「小沢さん」と書いてしまうのはその名残であるのだが、それは靖国参拝について寛容な考えを持っていたからに他ならない。靖国を批判していた前原・岡田より、小沢さんが党首になれば民主党も少しはマシになるだろうと期待もしていた。
しかし、代表になってみたら突然「霊璽簿から消せばOK」発言である。私はびっくりした。まさか小沢さんの口から、そのような無知丸出しの発言が飛び出すとは思わなかったからである。その発言をもって、私は小沢さんを見限ったのであった。そして思った。「西村眞悟もいなくなったこの党には、もはや何の魅力もない」と。
ところで小沢さんはこの度、夕刊フジに連載したコラムをまとめた「剛腕維新」という本を出版したそうだ。6年間の連載の集大成ということだが、この本には件の「行くなら8月15日に堂々と行け」と言った回も含まれているんだろうか。もし含まれていると、それを読んだ人はきっと混乱するに違いない。今はこう思っていないと注釈がついていればいいのだが…。